FC2ブログ

カフェマグノリアへようこそ!

日記・仕事・回想・コラム・レビュー・レポート・小説&詩篇集/金沢のもくれん院長の気儘ブログ 【HALE OLA HOKULANI E KOMO MAI】
2019年11月 ≪  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 ≫ 2020年01月
TOP ≫ CATEGORY ≫ 書評 ・レビュー
CATEGORY ≫ 書評 ・レビュー

「あの日にドライブ」を読んで



牧村は都内大手の元銀行員。ずっとエリート街道を歩んできたが、今は雇われのタクシー運転手。上司にたった一度だけ逆らい、それが元で銀行を辞めてしまう。その後、転職を試みるも悉く失敗、今は一運転手としてタクシー会社に雇われる身だ。エリート意識を捨てきれない彼は運転手を続けながらも、時折、今まで生きてきたなかのいくつかの分岐点に立ち戻っては、都度、自分が下してきた道の選択にずっと悔やみ続けていた。今の妻ではなく学生時代付き合っていたあの彼女と結婚していたら、、就活生の頃に憧れたあの出版会社に就職していたら、、あの日あの不遜な上司に心を押し殺し服従を誓っていたら、、そんな「たられば」ばかりの妄想を唯々繰り返すだけの毎日だった。

こうしたなか、ギャンブルに明け暮れているだけの男だと見くびっていた同僚、山城の本当の姿を知り、本当に愚かなのは自分であると気づく。また、売上トップの長老運転手、隊長さんの仕事ぶりを盗み学んでいくなかで、運転手としての自分に少しずつではあるが誇りを持ち始めてもいた。過去を辿るように街を流すうち、未練を残して別れてしまった彼女も、実は自分が思い巡らし妄想していた優しい彼女ではなく、容姿は変わらず美しいものの本当は意地の悪い女だったことに大きな衝撃を受ける。さらに、就活中にあれだけ憧れていた出版社はB級アイドルを扱うグラビア雑誌に落ちぶれてしまっていることを知る。

他人を羨み自らを卑下することに何の進歩もないことを肌で感じつつあった牧村は、ある日、自分を貶めたあの不遜な上司を偶然乗車させることになった。かつての上司もまた行内ばかりか家庭においても冷遇され不遇な環境に汲々としていたのだ。そして彼はひとつの確信に辿りつく。

牧村は言う。自分が通ってきた道は間違っていなかったなどという気はない。曲がるべき道を曲がり損ねたし、脇道に逸れたりも遠回りもした。でも、今来た道をもう一度通るのはちっとも楽しいことでない。先が分らないから楽しいのだと。。

これを読んで、「なんて女々しい奴だ。男ならすっぱりと前だけ向いて歩きやがれ」という読者も少なくないと思う。だが、それに関しては同意しにくい。なぜならまさにこの俺だから。云十億の資産を喪失して今日に至るが、今でもあの時ああすればよかった、あの時はこうするべきだったと暗く沈思してしまうこともある。忘れようと努めるが、それならばと意識の利かない眠りなかに今度は夢となってやってくるのだ。もちろん考えたってどうすることもできない。金、地位、名誉といった、俗な世間の、人を見る尺度とは違う自分なりの尺度を見つけ構築するのには随分と時間がかかるのだ。大きな挫折を経験した者にしか分からない事なのかも知れないが。。だから、挫折10年、今なお奮闘、構築中の俺には牧村を笑えない。

あの時失くしたものは計り知れない。が、得たものもあった。心底そう思うし、言い切れる自信もある。目をよく凝らしてみるとベールに包まれた素晴らしいものが隠れているのだ。家族に疎んじられていると思っていた牧村が実は家族から気遣いを受けていたという段。あれもまた目を凝らすことで見えたもののひとつなのだ。

タクシー業界の内幕が面白く描かれていて興味が持てた。右折するのか、左折すればいいのか、直進すれば正解なのか、どこに向かっても間違いはあるだろうし、当たりであることもあるだろう。ただ一つ言えるのは、同じ景色はないからこそ人生は面白い。不安は無きにしも非ずだが、俺も現在の仕事を全うし、さらに頑張ろうと思う。そんな気持ちにさせる作品だった。







ブロトピ:本のおすすめ

「アバウト・タイム」を観て

イギリス南西部に住む青年ティムは、両親と妹、そして伯父の5人家族。どんな天気でも、海辺でピクニックを、週末は野外映画上映を楽しむ。風変りだけど仲良し家族。しかし、自分に自信のないティムは年頃になっても彼女ができずにいた。そして迎えた21歳の誕生日、一家に生まれた男たちにはタイムトラベル能力があることを父から知らされる。そんな能力に驚きつつも恋人ゲットのためにタイムトラベルを繰り返すようになるティム。弁護士を目指してロンドンへ移り住んでからは、チャーミングな女の子メアリーと出会い、恋に落ちる。ところが、タイムトラベルが引き起こす不運によって、二人の出会いはなかったことに!なんとか彼女の愛を勝ち取り、その後もタイムトラベルを続けて人とは違う人生を送るティムだったが、やがて重大なことに気がついていく。どんな家族にも起こる不幸や波風は、あらゆる能力を使っても回避することは不可能なのだと……。そして、本当の愛とは、幸せとは何なのかを知る。同時に、ティムと時間の旅をともにする私たちも、愛と幸せの本質を実感することになる。≪公式HPより≫

身の回りに起こるひとつひとつの出来事をありのままを受け入れつつ、時折、ふと感じる小さな幸せを見過ごさないように日々の暮らしを大切に生きていくこと。それがタイムトラベルを繰り返すことでティムが得た幸せに生きる術だったのだ。ティムにとって父との永遠の別れはそのありのままを受容することのひとつでもあった。辛い選択をする息子を思いながらも、死してありのままを貫こうとする父の愛情に胸が熱くなった。父子が過去に戻り、幸せをかみしめるシーンがとても印象的。誰もが気づきながらも実行できずにいる、「幸せに生きる知恵」を今一度、思い起こさせてくれた。



「心の持ちようで一日が愉快にも不愉快にもなる」 確かにそうかも。。 嫁はんに口酸っぱく言われていることですが、屁理屈言うばかりでなく実践してみようとする素直さが必要なのでしょう。 








 

「さよなら渓谷」を読んで

都会の喧騒から離れた緑豊かな渓谷で幼児が殺害され実母が容疑者として逮捕される。これにて事件は落着するかに思われたが、容疑者であるその母親が同じ団地に住む尾崎俊介という男性と不倫関係にあったと供述し、世間の目は共犯関係を疑われる俊介とその妻かなこに向けられた。

警察の捜査が進むなか、事情聴取を受けたかなこは夫と連行された母親とは確かに不倫関係にあったと証言。一方、週刊誌記者の渡辺は、この事件の取材を進めるなかで尾崎が十数年前に世間を騒がせたレイプ事件の首謀者のひとりであることを知る。渡辺と同僚の女性記者小林は、尾崎と被害者A子(のちに水谷夏美と判明)、両者のその後の人生の焦点に当てさらに取材を続けた。一流企業に就職し、端から見ても順調な生活を送っていたにも関わらず、不可解にも忽然と姿を消し、今はこうして辺境の田舎町で内縁の妻とひっそり暮らしている尾崎。夏美はと言えば、悲運な恋愛を繰り返した挙句、レイプ被害に遭ったことを告白して結婚したはずの夫にそれが理由で暴力を振るわれる日々を送っていた。が、程なく彼女の消息は途絶えた。数ヶ月が経過した今、彼女の両親も もう生きてはいまいと望みを失っているような状況だ。

ある時、小林は、夏美に逃げられたDV夫から夏美はまだ生きているとの情報を得る。旦那らしき男と仲睦まじく立川の町を歩いていたというのだ。二人は歩を止めて街頭のテレビに映る野球の中継を熱心に見ていたらしい。かつて尾崎は大学野球で鳴らした名選手、そして今、子供野球のコーチをしている。。。 驚愕の事実に突き当たった渡辺と小林は真実を確かめるべくかなこの家に向かった -



小説を読んでからDVDを借りて観たが、小説のほうがやはり良かった。小説を映画化することは多いが、映像化されたものが原作を超えることは容易いことではないようだ。興行収入を考えざるを得ないだろうし、決められた尺のなかで伝えたい何かを短縮して表現しなければならないこともある。本作の映画版では初っ端から真木よう子の激しい濡れ場が設定されているが、小説では一行にも満たない程度にさらりと流している。こんなところにも小説と映画の違いが如実にあらわれている。この映画は原作にかなり忠実だが、こじんまり纏め過ぎているところや削られているところも無きにしもあらずだった。残念ではあるが仕方のないことのようだ。

本作は、レイプ事件の加害者と被害者の極限の愛が題材だ。あまりに特異な愛のカタチなので、二人の闇に覆われた心の内を推し量ることはかなり難しい作業だった。どこかで自分なりの結論を見つけ、それなりに決着をつけるしかないと思った。

とりあえず、加害者の尾崎俊介と被害者のかなここと水谷夏美の置かれた状況から考察してみる。俊介は自分の犯した罪の深さに自らを許すことができない。許すも何も幸せになる資格などないと考えている。夏美と再会してその思いは一段と強まった。だが、その取り返しのつかない罪がいとも簡単に許されていく世間の風潮があり、そのことに彼自身、憤りすら感じていた。一方、夏美は、自身に落ち度はなかったかと苦悩するなか、不可抗力なれどあの事件以来、誰からも許されることはなかった。許されるとしたら俊介以外にはみつからない。贖罪のために女に全てを捧げる男と男を決して許さないが、その男と生活を共にすることを選んだ女。あまりに哀しい関係ではないか。

こんな関係性のなかで果たして本当に愛は生まれるのだろうか。物語の最後、月明かりの下で渡辺が尾崎に、あの事件を起こさなかった人生と夏美と出会えた人生のどちらを選ぶかと聞く。返事はない。 が、彼の目をみた渡辺は、俊介が夏美を愛していると確信的に悟る。では、夏美のほうはどうなのか。俊介を愛しはじめていたのだろうか?相手を憎む愛などなくそこに幸せはない。その前提で言うなら、彼女が俊介の前から姿を消したところをみると、少なくとも夏美は俊介の愛に心が揺れ出したいう結論に至る。愛し始めていたからこそ消えざるを得なかったのだ。妻に憎らしいほどに疎んじられている渡辺が二人を羨んでいるように思えた。本当に幸せなのはいったい誰なのか、何をもって幸せというのか。色々と考えさせられる作品だ。

  

「ライアの祈り」を観て

明るく元気な姐御肌のアラフォー女性の桃子(鈴木杏樹)と無骨で不器用なクマゴロウこと佐久間五朗(宇梶剛士)のラブストーリー。

眼鏡店の店長を務める桃子は不幸な離婚を経験し心に傷を抱えたまま人生を前に進ませる勇気を持てずにいた。ある日、後輩に誘われ渋々出かけた街コンで遺跡発掘に情熱を燃やす考古学研究員のクマゴロウと出会う。彼と出会った瞬間、不思議な感覚に捉われた桃子は、彼の語る縄文時代の話に耳を傾けるうちにその時代の暮らしぶりや生き方に関心を持つようになる。彼の仕事を手伝う桃子は発掘作業を通して遥か昔の命に思いを馳せ、そして太古から今に続く幸せのカタチを模索しはじめた。

ある日、クマゴロウは縄文時代に日本と交流があったとされるベトナムへと調査に出かける。ベトナムのある島に赴いたクマゴロウは、皆が笑って暮らせることが願いだという部族長の言葉に縄文時代のシンプルで心豊かな生き方に通じるものを感じる。彼は部族長に「人間として一番大切なものは何かですか」と問うが、その答えは皮肉にも桃子の心の傷を思い出させるものだった。


ふたりの出逢いから恋の成就に至るまでの経緯が物語の冒頭から末尾まで延々と続く。普通なら途中、食傷気味になってしまうのだが、桃子とクマゴロウのキャラクターが魅力的に描かれていて、ふたりの恋をついつい応援したくなってしまった。前半はクマゴロウが桃子を案内するする形で八戸の見所や立ち寄り処を紹介している。それについては、震災からの復興を後押しする意味も大いにあるのだろうから否定するつもりもない。むしろ、観光気分を味わえて個人的には○。

物足りない点としては、桃子の夢のシーンが度々と登場してくるが、あまり意味を成していない。桃子とクマゴロウが時空を超えて繋がっているとしたら、その辺りの部分をもう少し丁寧に描けなかったのかと思った。原作を読んで補完しなさいとでも言っているのか、それとも映画の尺の関係か、もしかすると、造りこみ過ぎて、リアルな恋愛物語がファンタジーに代わることを恐れたのかもしれない。リアルに徹する意図があったとしたら、あの夢の回想は必要ないだろう。

疑問点もある。桃子は行きつけのバーで職場の後輩桜(武田梨奈)に離婚の理由を打ち明ける。その辛い現実がクマゴロウとの恋をこれ以上進展させられない原因だと遠回しに言っていた。この世には桃子と同じ悩みを抱えながらも懸命に生きている女性は多い。女性の心理は図りかねるが、このような悩みを持つ女性ほど現実は現実と割り切り自らが気持ちを強く持たねばと思うのではないか。どうにもならないことをいつまでもグチグチ悩むものだろうか、むしろ、クマゴロウに全てを打ち明け、彼の本意を知ろうとするのではないかと思うのだ。悩みある女性の心情を本当に汲み取ったのかと疑いたくなる点が惜しい。

主役のふたりについて。鈴木杏樹は可愛さを失わない三十路の女性を上手く演じていた。宇梶剛士のオーバーアクションも全く気にならなかった。彼にとって、クマゴロウは適役だったのだろう。ふたりのキャラクターがスト-リーを引っ張っていたのは間違いない。ほのぼのとした気分に浸れる映画だった。


     
















「ゆれる」を観て

完全ネタバレなのでご注意ください。


東京で写真家として成功した早川猛(オダギリ ジョー)は、母の一周忌で久しぶりに帰郷する。母の葬儀にも立ち会わず、父・勇(伊武雅刀)とも折り合いの悪い猛だが、温厚な兄の稔(香川照之)はそんな弟を気遣う。稔は父とガソリンスタンドを経営しており、兄弟の幼なじみの智恵子(真木よう子)もそこで働いていた。智恵子と再会した猛は、その晩、彼女と関係を持つ。翌日、兄弟と智恵子は近くにある渓谷へ向かい、稔のいないところで智恵子は猛と一緒に東京へ行くと言い出す。智恵子の思いを受け止めかね はぐらかそうとする猛だが、猛を追いかけて智恵子は吊り橋を渡る。河原の草花にカメラを向けていた猛が顔を上げると、吊り橋の上で稔と智恵子が揉み合っていた。そして智恵子は渓流へ落下する。捜査の末に事故死と決着がついたが、ある日、理不尽な客に逆上した稔は暴力をはたらき、連行された警察署で自分が智恵子を突き落としたと告白する。猛は東京で弁護士をしている伯父 修に弁護を依頼するが、公判を重ねるにつれ、稔はこれまでとは違う一面を見せていく。稔は、智恵子の死に罪悪感を抱いていたために「自分が殺した」と口走ってしまったと主張。その態度は裁判官の心証をよくし、公判は稔にとって有利に進む。しかし、稔が朴訥に語る事件のあらましは猛の記憶とは微妙に違っていた。猛は面会室で稔に、高所恐怖症にもかかわらず どうして吊り橋を渡ったのかと兄に問う。稔は「お前は自分が人殺しの弟になるのが嫌なだけだよ」と答える。後日、証人として証言台に立った猛は、稔が智恵子を突き落としたと証言する。7年後、スタンドの従業員 洋平が猛の元を訪れ、明日、稔が出所することを伝える。その晩、昔、父が撮影した8ミリ映写機とテープを見つけた猛は、テープに残された幼い頃の兄と自分を観る。猛の目に涙があふれる。明け方、猛は車を走らせ兄を迎えに行き、歩道を歩く稔の姿を見つけ「家に帰ろう」と叫ぶ。稔は猛の姿を認め、微笑む。 ≪キネマ旬報データベースより≫


いくつかどうしても分らないことがあるので列記したい。列記のみに留めるので、あらすじについては簡潔、かつ分かり易いキネマ旬報のデータベースより借用させていただいた。


* 吊り橋のうえから落下する智恵子を見ていた猛は急いで橋まで戻るが、橋の上で狼狽している稔になぜ何もみていないようなそぶりをしたのか。あの時の猛の態度が不自然で不可解だ。もしかしたら猛は落下の瞬間を見てはいなかったのかと思い、今一度そのシーンを巻き戻してみたが、猛はその瞬間を瞬きもせずに確かに見ていた。ひとつ考えられるのは、あまりに狼狽する稔を見て、自分が慌てる様子を見せれば、稔がさらに狼狽しかねないのでさりげなく近づくしかなかった。もうひとつ考えられるのは、猛は確かに見ていたが、事が事だけに何が起こっているのか認識できなかった、という見方。後者であるなら多くの疑問が解ける。最後のひとつ、それは、猛は稔が橋から智恵子を突き落としたと確かに認識した。しかし、それを見ていないことにしたほうが、今後、捜査が進行したとしても、稔、猛の双方どちらにとっても間違いなく都合がよい。漠然とだが咄嗟にそう判断した。これが真相のような気がしないでもない。猛にとって智恵子はこの時点では単に疎ましい存在なのだから。


* 稔が智恵子を突き落としたと猛が証言するシーン。稔は証言台の猛を見ながら笑みを浮かべていた。何の笑みか。これについてはいろいろと解釈がでているようだが、適当だと思えるようなものがない。全ての疑問が、橋のうえでの稔と智恵子がどうであったかに戻ってくる。あのシーンが猛の回想として描かれているのだが、その回想自体がまさにゆれているので真実かどうかもわからない。しかし、このシーンの真実が曖昧だとどうどう巡りになるので、私は以下のような経緯を敢えて真相としたい。稔は突き倒した後も智恵子に対する怒りは収まらず、実際に転落させようとする行為を行った。しかし、転落の寸前になって稔はようやく我に返り、智恵子の手を掴んで引き上げようとしたが、時すでに遅かった。こうであれば、あれは間違いなく殺人であり、稔自身もそう認識していることは疑う余地はない。とすれば、あの笑みは真実を恐れず証言した弟に納得した笑みだったのか。。(恐れずと言ったのは殺人者の弟となることを恐れないの意) 対して、この真相が全く違うものなら、例えば、稔は確かに突き倒した。だが、それによって落下したのではなく、後ずさりする智恵子が誤まって踏み外したとしよう。さすれば、稔のなかでは助けようとしたとの思いが強くなっても仕方がなく、あれは事故だったと思いたい気持ちが確信にかわっていたとしてもおかしくない。万一、そうならば、あの稔の笑みの意味も、昨日の自分の吐いた言葉に対するあてつけに兄を陥れようとする弟の変わり身の早さ、ようやく本性を現したなという蔑みだったのか、あるいは、ここでもまた、その場しのぎの猛ではなく真面目に生きてきた自分が割りを食ってしまったという自嘲の意味なのか。このように全く正反対の意味になるのだからどうにも言いようがなくなる。全てがあのシーンの真相と稔がどう考えているかという一点に絞られてくるのだ。


* 証言台の猛はどんな思いを抱いて証言したのか。「本当の兄を取り戻す」というのは、口からの出まかせで、悪意を持って稔を豚箱に送り込んだとも思えるし。。そもそも、猛の目にはあの光景が殺人に映ったのか、そうでないのか判断しかねる。確信が持てないまま証言したとも考えられる。見方をさらに複雑にしている一因だ。


* 刑期を終えた稔がバスに乗ろうとして顔を上げるとそこに猛がいた。猛の家に帰ろうという呼びかけに稔は笑顔を見せる。あの微笑みにはどんな意味が込められていたのか。バスに乗って行ってしまうのか、猛の呼びかけに応じるのか。上記に並べた疑問と被るところがあって、熟考すればするほどその答えが突拍子もないところに行きついてしまうような気がして全く結論が見い出せない。それでもあえて、自分なりに結論付ける。

別件で警察に引っ張られた稔が、何故、突如として過去の殺人を自供したのかについては、都会で成功している弟の足を引っ張ろうとしたのだろうと考える。稔にとっては殺人者になろうが、これからもずっとこの田舎でまさに今回の暴行事件のような不良客に対しても頭を下げながら悶々と生きていこうが、何ら変わらない。だとすれば、好き勝手に生きる弟をまさに殺人者の弟にする事で、橋のこちら側、つまり夢や希望とは無縁の世界に引き戻そしてやれ、と考えたのではないか。稔にとっては一縷の夢であった智恵子にまで橋のこちら側に留まることを拒否されたのだから、ふと、そんな思いに駆られることがあっても仕方ないと思える。

稔は智恵子を突き飛ばした。智恵子はそのことで転落した。直後、稔は我に返り、智恵子を助けようとするが、敢え無く力尽きる。つまり、稔の最後の気持ちはどうであれ、稔は間違いなく殺人者であり、彼自身にもその自覚はあった。これが結論である。






オダギリジョーと香川照之の演技力が半端ない。感動を誘うような話ではないが、稀にみる秀作だ。


にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 金沢情報へ
     
人気ブログランキングへ