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日記・仕事・回想・コラム・レビュー・レポート・小説&詩篇集/金沢のもくれん院長の気儘ブログ
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雷雪の如く 1.

 大粒の霙(みぞれ)がフロントガラスを叩いている。金沢駅に降りてタクシー乗り場へと向かう途中に降りだした雨は霙に変わり、今また急に降りが強くなった。ボンネットに打ちつけるそのけたたましさは、さながら機関銃を手にした麻薬常習者が銃口をこちらに向け乱射しているかの様相だ。時折、閃光が山際を照らし 間をおいて空がゴロと唸る。

先ほどまで押し黙っていた初老の運転手がついに口を開いた。
「北陸の冬はこれなんですよ。雷と霙の二重奏。これが終わるとドカっと雪がやってくるんですわ。どうやろね。あと一週間もすればこの辺りは一面、真っ白になっとるやろな」

後部席の漆田敦也は結露で曇るガラス越し外に目をやる。

とうとう、ここまで来てしまったか -
街灯が間近に滲んでみえる。それも瞬く間に後方へと消え去っていった。夜の8時を少し回っただけというのに対向車に出合うことすらない。漆黒の闇のなか、霙の弾ける音だけが響く。ヘッドライトに照らされた一寸先の路面だけが頼りの、山峡の一本道。暗い闇に潜む得体のしれない生き物が今まさに我らを呑み込もうと大きく口を開けているかのようにもみえる。怖気づいた子犬のようにせわしなく振れるワイパーの向こうには死んだような民家の軒先が現れ、また一軒現れては闇へと消えた。

金沢駅を出て30分ほど走ったろうか。
「あと5分くらいかな」 
運転手がひとりごとのように言う。到着前に乗客に寝入ってしまわれては厄介なのだろう。耳たぶを引っ張りながらバックミラーを覗き込んでこちらの様子を窺っている。

「思ったより駅から遠いね」 轍のおうとつが車をガタガタと揺らし、その苛立ちが口に出た。
「この天気だからねえ」 仕方のないことだと言いたげな様子の運転手。こんな山道を走ることになるなんて聞いてないぞ、そう言っているようにも聞こえる。


金沢に降り立ったのは腹違いの姉の消息を確認するためだった。姉が勤めていたという旅館に部屋を予約している。宿の主によると1ケ月前、姉は忽然と姿を消したという。姉の身の上に何が起きたのか。何に怖れをなし何処に身を隠しているのか。その手掛かりを見つけるまでは絶対に帰れない。こう心に決めてきたのだが ・・・ もしかすると別の旅館で名を変え働いているのかもしれない。「いきなりやってくるなんてどういう風の吹き回し?」 なんてことを口走り、眼を丸くさせながらも義弟の突然の来訪を喜んでくれる ー そんな楽観した絵図もぼんやりとだが持っている。否、そう自らに言い聞かせているのかもしれない。人には優しく騙されやすい一面、無きにしも非ずの姉だが、毅然とした性格の持ち主でもある。事件や事故に巻き込まれたり自殺することなど到底考えられない。

姉は7歳年上で、現在43才になる。幼い頃 しばらくだけ一緒に過ごしたことがある。姉は、成人した後、父の元を離れ 大阪に移り住み、小さな町工場の事務員として働きだした。雑務だけでなく営業もこなしていた姉はたまに東京に出張することもあって、そんな時には必ず連絡をくれた。そして、学生の私はいつもご馳走にあずかった。「お義母さんには内緒だよ」と ウインクする姉をどこか眩しく感じたものだ。母と姉の関係は良好だった。姉は常に母を立てていたし、母は姉をひとりの大人として認め 接していた。今思うに、お互い踏み込んではならない領域を分かっていたのだろう。そんな賢かった母も私が社会に出る年、病に倒れ、帰らぬ人となった。

父が急逝したのは5年前。姉はすでに大阪の工場を辞め、北陸の小さな温泉場 湯涌で仲居を始めていた。不況のあおりを受けて会社が傾き、工場を辞めざるを得なくなったらしい。父の葬儀に戻ってきた姉は少しやつれてはいたが、哀しみのなかにも時折、にこやかな笑顔を見せていた。法要を済ませた後、再会を約束して別れたものの、それ以後 姉とは会っていない。連絡がないことを元気でいる証のように考えていたし、私自身も慌ただしい毎日に埋没しており 姉を慮る余裕すらなくなっていたのだ。

心にようやく余裕が生まれたのは最近のこと。遠く離れた姉のことも気になり始めていた。そんな折、互いの携帯番号を確認しているにも拘わらず、その姉から封書の手紙が届く。大事な話があるから金沢を訪ねてほしいとの旨だった。季節の挨拶と近況を知らせる穏やかな書き出しの手紙であったが、心に引っかかるものを感じた。不安が過ぎる。今ではもう、血のつながりのある唯一の人、幼い頃には女神のように思えた弟思いの優しい姉が目蓋に浮かんだ。不安を打ち消すべく電話をかけたが、全く繋がらない。何度かけても繋がらなかった。携帯番号を変更したのか。今度は姉の住所に宛てて手紙を送る。だが、何の音沙汰もない。居てもたってもおられず、私は急遽1週間の休暇を会社に申し出、こうして姉の所在を確認するためここ金沢に足を踏み入れたのだ。

辺りが明るさを取り戻しつつあった。温泉組合の看板の「ようこそ」の文字が視線を横切る。スナックの古びたサインに灯が灯る。人の温もり、息づかいを感じられる場所にようやくたどり着いたようだ。姉は一体ここでどんな暮らしをしていたのだろうか。果たしてまだこの地に留まっているのだろうか。そしてこの私に何を伝えたいというのか。。

タクシーは小さな宿の前に横付けされた。
「さ、お客さん、着きましたよ。雨が止んでるうちにお入りください」



「あの日にドライブ」を読んで



牧村は都内大手の元銀行員。ずっとエリート街道を歩んできたが、今は雇われのタクシー運転手。上司にたった一度だけ逆らい、それが元で銀行を辞めてしまう。その後、転職を試みるも悉く失敗、今は一運転手としてタクシー会社に雇われる身だ。エリート意識を捨てきれない彼は運転手を続けながらも、時折、今まで生きてきたなかのいくつかの分岐点に立ち戻っては、都度、自分が下してきた道の選択にずっと悔やみ続けていた。今の妻ではなく学生時代付き合っていたあの彼女と結婚していたら、、就活生の頃に憧れたあの出版会社に就職していたら、、あの日あの不遜な上司に心を押し殺し服従を誓っていたら、、そんな「たられば」ばかりの妄想を唯々繰り返すだけの毎日だった。

こうしたなか、ギャンブルに明け暮れているだけの男だと見くびっていた同僚、山城の本当の姿を知り、本当に愚かなのは自分であると気づく。また、売上トップの長老運転手、隊長さんの仕事ぶりを盗み学んでいくなかで、運転手としての自分に少しずつではあるが誇りを持ち始めてもいた。過去を辿るように街を流すうち、未練を残して別れてしまった彼女も、実は自分が思い巡らし妄想していた優しい彼女ではなく、容姿は変わらず美しいものの本当は意地の悪い女だったことに大きな衝撃を受ける。さらに、就活中にあれだけ憧れていた出版社はB級アイドルを扱うグラビア雑誌に落ちぶれてしまっていることを知る。

他人を羨み自らを卑下することに何の進歩もないことを肌で感じつつあった牧村は、ある日、自分を貶めたあの不遜な上司を偶然乗車させることになった。かつての上司もまた行内ばかりか家庭においても冷遇され不遇な環境に汲々としていたのだ。そして彼はひとつの確信に辿りつく。

牧村は言う。自分が通ってきた道は間違っていなかったなどという気はない。曲がるべき道を曲がり損ねたし、脇道に逸れたりも遠回りもした。でも、今来た道をもう一度通るのはちっとも楽しいことでない。先が分らないから楽しいのだと。。

これを読んで、「なんて女々しい奴だ。男ならすっぱりと前だけ向いて歩きやがれ」という読者も少なくないと思う。だが、それに関しては同意しにくい。なぜなら、まさにこの俺だから。云十億の資産を喪失して今日に至るが、今でもあの時ああすればよかった、あの時はこうするべきだったと暗く沈思してしまうこともある。忘れようと努めるが、それならばと意識の利かない眠りなかに、今度は夢となってやってくるのだ。もちろん、考えたってどうすることもできない。金、地位、名誉といった、俗な世間の、人を見る尺度とは違う自分なりの尺度を見つけ構築するのには随分と時間がかかるのだ。大きな挫折を経験した者にしか分からない事なのかも知れないが。。だから、挫折10年、今なお奮闘、構築中の俺には牧村を笑えない。

あの時失くしたものは計り知れない。が、得たものもあった。心底そう思うし、言い切れる自信もある。目をよく凝らしてみると、ベールに包まれた素晴らしいものが隠れているのだ。家族に疎んじられていると思っていた牧村が、実は家族から気遣いを受けていたという段。あれもまた目を凝らすことで見えたもののひとつなのだ。

タクシー業界の内幕が面白く描かれていて興味が持てた。右折するのか、左折すればいいのか、直進すれば正解なのか、どこに向かっても間違いはあるだろうし、当たりであることもあるだろう。ただ一つ言えるのは、同じ景色はないからこそ人生は面白い。不安は無きにしも非ずだが、俺も現在の仕事を全うし、さらに頑張ろうと思う。そんな気持ちにさせる作品だった。







ブロトピ:本のおすすめ

「ユリゴコロ」を読んで

数年前に出版界で巻き起こった「まほかるブーム」、その発端となった本作。第5回北陸文庫大賞にも選ばれた。遅ればせながらではあるが、読んでみた。



物語は、主人公亮介が末期がんに冒され余命わずかの父がひとり暮らすアパートで「ユリゴコロ」と題した4冊のノートを偶然見つけるところから始まる。それはまるで人を殺すことに憑りつかれた人間の告白文のような内容だった。

「私のように平気で人を殺す人間は、脳の仕組みがどこか普通と違うのでしょうか」一冊目に綴られていたフレーズである。胸騒ぎを感じた亮平は、家族の秘密、母とおぼしき人の所業、そして自らの出生に関わる秘密を知ろうと、一冊、そしてまた一冊と、父に隠れて読み始めるのだった。

ノートに綴られている内容と亮介の過去の記憶や今の心境が交互に描かれているのが前半部。多少の怖さはあるものの少し単調な感じがしないでもない。ノートの全貌が明らかになるのは意外に早かった。憶測交じりではあるが、粗々と分かってきたころ、亮介はとうとう父の口からその真相を聞く。

それは決して亮介にとって好ましいものではなかったが、全てを知った後でも亮介とその家族の絆は弱まるどころか強まった感さえあった。亮介の弟洋平の存在や彼のあっけらかんとした性格が見事に物語を救ってもいたし、亮介もまた冷静さを失わずに真摯に真実と向き合った。どこか胸を撫で下ろすような思いを持ったのは私だけだろうか。また、こうしたサスペンス仕立ての前半部からノートの全貌が明らかになる中盤を読み進めるにつれ、もしかすると本作のテーマが私が思うところとは全く別のところにあるのではないか - そんな思いにも至る。

終盤に入り、亮介の前から忽然と姿を消した恋人千絵が見つかる。亮介はずっと千絵を忘れられずにいたのだが、亮介の経営していたドッグランで働く年配の女性が彼のために骨を折り探し出してくれたのだ。姿を消した理由も分かった。お互いの気持ちも変わらなかった。平穏を取り戻しつつあった亮介。だが、千絵との穏やかな日々を守るためどうしてもやらなければならないことがあった。あのノートの書き手が何度も犯してきた「殺人」だ。難題ではあったが、亮介は彼なりの行動でどうにかそれも切り抜け、何事もなかったかのような平常を取り戻す。

物語の最後、亮介と洋平が病床の父を見舞う。父は死を間近にして真相のなかの真相を穏やかで幸福感に満ちた空気のなか二人に告げる。そして、最後のシーン!! 胸が熱くなる結末が用意されていた。

家族の愛、男女の永遠の愛がテーマだと言いきれるかどうかは分からない。ただ、おどろおどろしいストーリーのなかにも人への愛おしさが胸に沁み、目蓋がジワリ濡れてしまった。何とも特異な小説だ。ただ、ひと言いうなら、亮介の母とあの人がどうしてもつながらない。ユリゴコロが落ちるとはこうも人を変えるのか。

  

最後のシーンがオカルトチックなシーンを凌駕している。読後感だけなら恋愛小説のジャンルに入れていいだろう。

「無垢の領域」を読んで

「無垢の領域」を読んだ。これは、自分の胸の奥底に渦巻く様々な感情を掘り出し 机上に並べて自らに問いかけるような小説だった。その感情とは嫉妬、欲望、諦観、憤懣、打算等、否定的なニュアンスで表現できるものばかり。物語のなかで一人称で語られる3人の登場人物のいづれかに自らを重ねてみた読者も少なくないだろう。

人はそれらの感情に蓋をして生きている。そうあらねば他との関わりのなかで生きることが出来ない。生きねばならないから苦しくもあり悲しいのである。だからといって一概にそれは不幸だとは言えない。



書道家の秋津、秋津の妻で養護教員の伶子、図書館長の林原。三者は其々に様々な思いを抱きながら懸命に生きている。この3人の前にある日突然純香が現れる。純香は林原の妹ではあるが父が異なるため祖母に育てられていた。祖母は亡くなる直前、成人してはいるが生活能力に欠ける純香を林原に託してきたのだ。

純粋無垢な純香とともに暮らす決意はしたが不安を隠せない林原、純香の書の才に気付き自ら主宰する書道塾で指導補助として純香を招き入れる秋津、病床の母を日々介護する秋津を金銭的に支える伶子、各々、言葉にできない不満や鬱憤を抱え日々の生活を送っていた。そんな時だった。純香の出現は彼らの胸奥に潜り沈んでいた黒い澱の数々を暗い闇の底から炙り出し浮き立たせたのだ。

秋津にとってそれは純香の才への嫉妬であり妻に養われているという卑屈さであった。また、自分を解放させてくれない母に対する憤懣であった。林原にとっては純香は愛おしくもあり煩わしくもある。思わせぶりな言動をみせる伶子に寄せる不埒な関心は恋人里奈に対する欺瞞であり、純香を全ての言い訳のひとつにしてもいる。伶子もまた煩わしさから実家と疎遠になっており、不満とは言い切れないものの心揺れることもない秋津との生活のなかにあって感情の起伏もなく全てを冷めてみている自身をも深く嫌悪している。林原と繋がりは緩慢な生活からの逃避、もしくは蓋をしていた自らの欲や感情の発露だったのだろうか。伶子にとって純香は林原との都合のいい結束点でしかなく、怜子はそれを自覚しつつも狡猾に利用していた。

こうした三者三様の想いは時に卑しく狡いものに違いない。だが、この小説にはどこかそれも仕方のないものであり、人が生きていくうえで常につきまとうものとも捉えてもいる。澄んだ水に魚が住めないのと同様に無垢な純香の領域では人は生きづらい。大人ならなおさらだ。伶子の勤める学校の生徒沙奈は大人の透けてみえる感情を嫌味たっぷりに道化と呼んだが、誰にも左右されずストレートに行動し、己のみの価値観で生きていこうとする彼女のような意志の強さがあれば話は別だろう。また、老いてまるで子供のように振る舞い自らの言動に何の恐れも持たない秋津の母も沙奈と同類に思えた。

結末で、秋津の受賞を祝う式に出席した林原は秋津にあることを告げる。林原をあの言動に駆り立てたのは林原の秋津に対する嫉妬だったのか。幼い時に自殺した書道家であった母への、あるいは純香へのオマージュだったとも思えるし、書道家としての野心を叶えられずに死んだ母の無念が林原の心の内で秋津に対する嫉妬となって形を成したのか。伶子は林原ではなく秋津を選んだ。そこからくる嫉妬なのか。その全てのようにも思える。人の思いは複雑で「嫉妬」と一口に言っても見方は様々だ。

人は仕方のないことがいっぱいになると他人を恨みますか。でも、私はあなたを恨みません。そんな意味のことを純香は死の間際、口にする。先に純香の領域では生きづらいと言った。しかし、誰もが身勝手で愚かならば、もちろん自分も含めてではあるが、その領域に心寄せて生きてみることこそ大事なのかもしれない。

心象描写がこれほどまでに散りばめられている作品は珍しい。女流作家らしい素晴らしい作品だ。二度読みして心の在り方を深く掘り下げてみても面白いだろう。 とは言いつつも 私のなかでは心象描写をことごとく排除したようなハードボイルドが一番であり、それはこれからもかわらない。

  



「クリーピー」を読んで

犯罪心理学の教授である高倉は、妻と二人、杉並の閑静な住宅街の一戸建てに住む。西隣には二階建てのアパートがあり、当の高倉家、東隣の西野家、そして向いの田中家、この3軒はそのアパートを隔てて孤絶した環境にあった。

ある日、その高倉に野上という男が訪ねてくる。野上は現在、警視庁捜査一課の刑事であり、高倉の高校時代の同級生でもあった。当時、そんなに仲が良かったわけではないが、同級生のよしみもあり犯罪心理学の専門家でもある高倉にある未解決事件についての考察を依頼してきたのだ。その事件とは8年前に起こった一家3人行方不明事件。たまたま家にいなかった中学生の長女は難を逃れたが、両親と長男が忽然と姿を消してしまう。現場には血痕が残されており、何者かにより暴力が行使されたことは疑う余地はない。警察の懸命な捜査にも関わらず今日まで解決には至らなかった。ところが、最近になってその残された少女が奇妙な証言をしているという。野上はその証言の真偽評価を依頼してきたのだ。高倉はその評価をまとめ、コメントを送付した。が、その直後、野上が失踪していることを知る。

そんななか、高倉の妻は西野家にまつわる異様な光景を目の当たりにし、西野家の娘が実父にアビユースを受けているのではないかとの疑念を抱く。そして田中家からも探りを入れるのだが、後にそれが仇となってしまうのだ。高倉の妻に気を許しつつあった西野の娘はついに驚くべき言葉を口にする。「あの人は本当のお父さんではない」と。。



「CREEPY」とは、身の毛もよだつような、気味の悪いという意味を持つが、まさに蛆虫が這いずっているようななんとも気味の悪い出だしだ。第一章の「隣人」では穏やかに物語が進行、逆にそれが気味の悪さを醸し出していた。第二章の「連鎖」では、大学内におけるストーカー事件に話が移行し、この先この章における恋愛沙汰がどう本筋に関わってくるのか興味が持てる一方、落ち着いた気持ちで読み進めることができた。そして第三章「仮面」、高倉はついにのっぴきならない事態に直面する。意外と早い段階で猟奇的な要素が描かれ、私たち読者をハラハラさせた。そんな印象の冒頭の三章だが、次章は次章でまた必ず別の展開が待っているのだ。なかなか秀逸なストーリー展開といえる。最後の章「幻影」でも意外な結末が待ち受けていた。この結末はミステリーとしては捻りがあり、これはこれで面白いと思うが、多少恐怖感を欠いたものになった。そう思うのは私だけか。いや、これでいいのかもしれない。身の毛もよだつ恐怖とは、得てしてそっと静かに寄り添う隣人のようなものなのだから。

これを読んで思い出したのは、4年前、明るみになった「尼崎事件」だ。主犯の角田美代子は獄中で自殺し事件は幕を閉じた。この小説の西田同様、角田は人の弱みにつけこんだり洗脳したりと、飴と鞭を使い分けるなど人心を掌握する術に長けていた。また、物語のなかの西田が西田本人でなく、自称西田であり実は矢島であったのと同様、角田は角田本人でなかったと噂されてもいる。いわゆる「背のり」という犯罪、その疑惑だ。この犯罪行為がこの一件で明るみになり公に広まることを良しとしない勢力が権力に圧をかけ容疑者自殺という形で事件をうやむやに決着させたという説もある。戦後の混乱のなかでは儘あったとも聞く。現実は小説よりクリーピーということか。。


あなたは殺人鬼。包丁を手にしている。目の前にいる人物を殺そうと包丁を振り上げた。あなたの恐ろしい形相にその人物は逃げ出し、人ひとりがやっと隠れることのできる小さな箱を見つけそのなかに身を隠す。殺人鬼のあなたは、最初その隠れ場所が分からなかった。が、とうとう隠れ場所を突き止める。殺したい人物はその小箱のなかで息を潜めている。さて、あなたはどうする?


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桜の樹の下で愛を叫ぶ

二日続けて卯辰山に。卯辰山は家から近いので、僕にとって遠山(とおやま)ではない。



遠山ではないが、金さんの背中のような山。愛のおしらす、吹雪が美しい。あまりに惜しげもなく舞い落ちるものだから



「散らしてみるなら散らしてみやがれー」と叫んでやった。(モチロンこころのなかで)

""の樹の下で""ひとり金さんを演じていると、遠くから渡辺淳一の小説の樹の下で」みたいな男女が車でやってきての樹の下でいちゃついてすぐまた去っていった。浮かれ気分も興醒めだ。の樹の下には人を憂鬱にさせる何かがあるのだろうか。。梶井基次郎の「の樹の下には」みたいな何かが。




梶井は難解だよね。分かる人のほうが少ないと思うけど、この僕の記事の文中に「桜の樹の下」は何回出てきたでしょうか?それなら分かるよね。


難解と何回をかけたのも分かるよね。

「桜の樹の下には」は非常に短い小説だから、青空文庫で無料で読めるよ。 クリック 機会があれば感想を聞かせてね。






「流れ星の冬」 を読んで

「流れ星の冬」〈新装版〉を読んだ。



男の矜持を胸に見えない敵に戦いを挑むハードボイルド、その真骨頂がいい。この手の小説には珍しく高齢の男を主人公に据えたのも面白い。大学教授の葉山は65才。世間でいえば、老兵死なずとも消え去るのみの心境で後身に道を譲ってもおかしくない年齢だ。その一方で、人生においてやり残したものもみえてもくる。こだわりを持って生きたいという己れの思惑があっても世間との断絶を恐れるがゆえに執着や矜持を手放さざるを得ないこともでてくる。そんな年頃ではないだろうか。

葉山は愛するもののために、男の男たる矜持を胸に刻み、錆びれ衰えてしまった知力体力を奮い立たせ、敵に戦いを挑む。新宿鮫シリーズのように緊迫したシーンは少ないが、そもそもハードボイルドは心の持ち方や生き方を言うのだろうからあえてドンパチやる必要はないのだろう。歳を重ねても葉山のようにカッコよく生きたいものだ。

  



「やがて、警官は微睡る」を読んで

ハードボイルドを手掛ける女流作家、日明恩の「やがて、警官は微睡る」を読んだ。

横浜の高層ホテルが無国籍の武装グループに占拠され、そこにたまたま居合わせた刑事が犯人グループ相手に戦いを挑むというストーリー。ホテルの従業員のなかに犯人グループの一味がいて、そのあたりの心理戦がストーリーを面白くさせている。また、犯人グループのなかの双子の少年があまりに猟奇的に描かれており、前段に描かれる彼らの殺人シーンが脳裏に媚びりついて読み進める間もドキドキ感は止まらず一気に読了した。

この警官シリーズでの魅力は、何といっても強面ながらも実直な刑事と筋金入りのおぼちゃまでキャリアのノリ軽い警視 ふたりのタッグである。シリーズを通して一貫している相反するふたりの強烈な個性が面白い。それぞれの肩書は時の経過とともに変わってきてはいるが、阿吽の呼吸で事件を解決に導きながらの掛け合い、とりわけ警視が先輩であるその刑事を慕い尊敬している姿が微笑ましくもあり、おどろおどろしい物語を楽しい警察ものにしている。



   

「64」を読むにあたり

横山秀夫の「 64 (ロクヨン) 」を読み始めた。初刊より数年の時を経て近々映画上映されるという。ご覧の通りの豪華なキャストだ。俳優陣と小説内の登場人物を照らし合わせつつ先ずは読んでみておいおい映画をみるのも悪くない。そんな思いで書店の平積みからこの一冊を手に取った。



横山秀夫といえば当代人気のミステリー作家である。特に直木賞の候補に上った「半落ち」は多くの読者を魅了した。この作品は刊行当時、読者の評価は高く直木賞の有力候補に上り ファンは固唾を呑んでその結果を見守った。しかし、いざ選考会の蓋を開けてみるとその評価は思いのほか芳しくなかったのである。選考委員のなかでの評価が真っ二つに分かれてしまったのだ。委員のひとり北方謙三氏の指摘する問題点が議題にあげられるとそれに同調する意見が大勢を占めるようになり、結局落選の憂き目をみることとなる。黒岩重吾氏や渡辺淳一氏のかなり辛辣な論評もあってか、横山氏は反論を試みる。同氏はミステリー界の立場を悪くするのは我慢ならないと「指摘された問題点はない」との主張をありとあらゆる媒体で展開する。しかし、直木賞側からはなんの反応も示されることはなく、業を煮やした同氏は以後、直木賞と関わりを絶つことを記者時代に世話になった地方紙紙上で宣言したのだ。

その指摘された欠点は「リアリティー」の問題だ。小説の中のどこのどの部分が現実と乖離しているかの問題はさておき、僕自身、前回のブログでも書いたように現実味のないストーリーは好まない。ただ、それは好き嫌いの問題というだけであって、「ありえない」と思うことはあっても絶対にありえないと断言できるものはないとも考える。小説に限らず全てのエンターテイメントに通ずることだが、面白いものは面白いでいいのだと思っている。つまりは直木賞がそれを拒んだだけだ。こう言うと、直木賞その母体に対して批判をしているように聞こえるがそうではない。直木賞主催者は日本文学振興のために直木賞を立ち上げた。もちろん、金も場も提供している。それが権威となって今日綿々と続いているだけのこと。選考委員は自分の責任において選考し主催者はそれに責任や義務を負う必要などない。そもそもアワードとはそういうものだ。

「半落ち」に続いて話題となった「64 」、ミステリーベストにも選ばれている。加えて、これだけの俳優陣を揃えて映画化したのだから面白くないわけがないし、今後の作品にも大いに期待が持てよう。あの選考評価におけるごたごたを経て今日選考委員の視点ももしやすると変わってきているかもしれない、そう考えると、同氏の宣言が些か早かったような気がしてならない。

  

 










「怒り」を読む。虚構性とかリアリズムとか。

吉田修一の「怒り」を読んだ。2年程前に出された小説で、当時、世間を騒がせた事件がモチーフとなっている。今年の秋に「映画」上映される予定だ。錚々たる俳優陣が名を連ねているから、さぞかし見ごたえのある映画になることだろう。

僕が好む小説には僕なりのいくつかの楽しめる条件が備わっている。この小説はそのいくつかの点を満たしているので最後まで息切れすることなく一気に読めた。その条件のひとつは、舞台となる地方の風景や都会の街の情景がちりばめられていること。例えば、西村京太郎の小説ではその点を余すところなく伝えている。と言ったら分かるかもしれない。ある意味、旅する楽しみと同じもの。ふたつめの条件は現実的であること。フィクションとは分かっていても過度に虚構的だと読む気が失せてしまう。松本清張の小説はその点をおろそかにしてはいない。心理描写に裏打ちされたリアリズムが底流にあるのだ。3つめは、小説の醍醐味というのだろうか、人間、生き様の何たるかを描いているかだ。言うまでもなく人物描写が重要になる。それが描き切れていないと前述のリアリズムが薄れてしまう。それには適切な心理描写と合致した行動描写が求められるだろう。そして最後のひとつ。それはストーリーが面白いこと。多くの読書家はこの条件を一番に据えると思うが、僕の場合はあながちそうでもない。

あらすじについてはカスタマーレビューでもみてほしい。読むなら見るべきではないし、読む気がないなら上映を待ってもいい。ただ、映画には映像という情景描写の手段はあるが、懇切丁寧は心理描写はない。俳優の演技に期待したい。