カフェマグノリアへようこそ!

日記・仕事・回想・コラム・レビュー・レポート・小説&詩篇集/金沢のもくれん院長の気儘ブログ
2017年08月 ≪  123456789101112131415161718192021222324252627282930 ≫ 2017年10月
TOP ≫ 体罰
TAG ≫ 体罰
      

「体罰」に思う

体罰が問題となっている。

昨今の、「これが体罰である」と認められている行為が体罰だとすれば、まさに我々の世代は体罰によって教育を受けてきた世代である。

私自身も中学時代には野球部に所属し、月明かりを頼りにボールに石灰を塗すなどして毎夜遅くまで練習に励んでいた。練習が終わる時間になると決まって、部員全員が監督の前に整列させられ、ひとりずつバットの握り手の部分で頭を叩かれていたことを思い出す。それも毎日だ。叩かれる理由があったのだろうが今や思い出せない。

また、けつバットは日常茶飯事だったし、ノックの最中にはバットがぐるぐる回りながら飛んでくることもあった。ラインを引くあの転がすやつを一晩放置してしまい、雨で石灰を固まらせてしまった時も、部員全員の共同責任ということで、並ばされ、順々に顎の辺りに鉄拳を食らせられたこともあった。頭をバットで叩かれると頭上でキラキラ星が見えるとよく言うが、あれは嘘ではない。

さて、体罰による指導は「勝つ」という目的遂行おいては短期的な効果をもたらすことは否定しないと、ある有識者がテレビ番組で言っていた。確かに、私自身、試合に負けた記憶より勝った記憶の方が圧倒的に多いのも事実。地元では誰もが認める常勝チームで、同じ監督のもと、すぐ下の後輩たちは北信越で優勝しているくらいだ。

しかし、その指導でどれだけ自分自身が成長したかと考えたら、野球は上手くなったが、それ以上のことは見つからないように思う。辛抱強くなったかと言えばそうでない。体力は人並みについたとは思うが、心が変わっていないからか、踏ん張りが効かない。引き続き、高校でも運動部に在籍してはいたが なんら変わることはなかった。

それはお前だけだよという批判を覚悟で言おう。体罰による指導には教育的側面は皆無である。私は、精神及び身体的な滋養を育むという本来の「体育」の目的こそが全てに優先されるべきだと思う。それが国を強くし、また広義の意味で国民を豊かにするものだからだ。

某校での体育科なるものが、体育本来の目的やその指導者を育てるという目的を担っているのであれば、そこに体罰など必要であるはずがない。学校の名を称げるため勝つことだけに長けた学生を育てているのではないかと疑いたくなる。もしそうなら、そこに人間性を育むという理念はない。

金メダリストが先ごろ実刑判決を受けた。真実は明らかではないが、スポーツをしているから精神的にも成熟しているということはない。理念をないがしろにして勝負だけにこだわり続けたスポーツ環境の成れの果てを見る想いだ。いまこそ何が一番大事なのかを見極める時ではないか。


ご訪問ありがとうございました。 にほんブログ村クリック(∩´∀`@)⊃お願いします!